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COLUMN

習慣の力

practice, practice, practice... |移り変わる季節の中で

習慣について、最近思うことを書いてみます。

その行為自体が目的ではなく 目的に対する適切な手段のひとつ、

つまり過程の一部になったときに それは叶ってゆくんだなという実感。

だから、習慣はもの凄い力を持っているんじゃないかな、と。

習慣化するためには 自分と向き合わなければいけない。

しかも、その都度変化する自分と。

人生を歩む道のりとして その手段が日々の習慣となるほど 人生に馴染んだ時、

結果は自ずと現れる、と感じています。

そういう時って最初叶えたかったことへのエゴや執着が消えていて

とてもピュアな状態。 本質を試されている感覚があるのです。

これが執着と三昧との 違いかもしれない、とふと思ったり。

確かに、自分のこれまでの出来事を振り返ってみても

何かが上手くいかないと感じるとき、八方塞がりのように感じるとき、

「あぁ私は目的と手段を取り違えていたなぁ」と気付いたことは少なくありませんでした。

次に、「自分が一番大切にしたいことは何?」と本来の目的に立ち返ると、

意外に頑なにこだわっていたことは単なる手段でしかないことにはっとするのです。

もちろん、だからと言って、課題がすぐに解決することばかりではないけれど、

少し違う角度から物事を捉え直すことでアイディアが湧いたり、

新しい道筋が垣間見えたりすることってありますよね。

そうして、自分に丹念に向き合い、目的が純度を増していけばいくほど、

きっとその目的は自我(エゴ)を超えていく。

人生、というと大げさだけど、生きている時間は毎日の積み重ねで、

こんな螺旋階段のような試行錯誤を繰り返して日々は過ぎていくから。

習慣、つまりは私にとっては「自分と向き合うこと」を

大切にしたいと思うのです。

習慣や実行することについて、

ヨーガ・スートラを解説したインテグラル・ヨーガからも一節、ご紹介します。

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“PRASAMKHYANE'PY AKUSIDASYA SARVATHA VIVEKAKHYATER DHARMA-MEGHAH SAMADHIH.

完全なる識別によって最も高い報酬にさえまったく無欲となった者は、

不断の、明敏なる識別の内にとどまるものであり、

それはダルマメガー・サマーディ【法雲三昧】と呼ばれる境地である。” by Swami Satchidananda

IV-29


− “ダルマメガー”とは、“すべての美質がそこにある”という意味である。

 人は、「高まりたい」という欲望さえ消えたときに、その境地に至る。

 それはなぜだろう?誰が「高まりたい」と思うのか、ということである。

 それは、すでに高きに在る者だろうか?違う。「高まりたい」という

 渇きがあるかぎり、あなたは高きにはおらず、本当に高くなったときには

 その渇きは消えているからだ。達成されるべきものを達成し、すべての

 欲望が抜け落ちる…あなたが完全に解き放たれるのは、そのときでしかない。

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